Emondō Takakura-ryu
衣紋道 髙倉流
門弟を募集いたします
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源氏物語の世界――千年の美をまとう
日本の宮廷装束は、飛鳥時代に大陸から導入した服装が日本の文化や気候風土に合わせて変化したものです。
着付けをする技術を「衣紋」といい、平安時代末期ごろに柔らかな「柔装束」から硬くて大きな衣装「強装束」が好まれるようになった時、着付けに高い技術と知識が必要になり、「衣紋道」の名で伝えられるようになりました。
衣紋道髙倉流は、平安時代依頼の有職故実を受け継ぎ、同じくもう一つの流派である山科流と並び立って、現代でも国家儀式や皇族葬儀の際に、皇族の方々に伝統的宮廷装束の着装を御奉仕しています。
衣紋道で学ぶ日本の装束文化、見た目の美しさだけではなく、所作・作法・相手を思いやる心を通して、日本人としての美意識を育て研究をおこたらず、後の時代につなげていきましょう。
〈指導〉衣紋道髙倉流直門本部教授
実践女子大学 ホームページ映像(着装・撮影指導:永井とも子)
2023年12月1日〜12月28日 丸紅ギャラリー展覧会
「源氏物語 よみがえった女房装束の美」 図録(P.8〜P.13)
女房装束の歴史―髙倉家の歴史を通して―
髙倉永佳(衣紋道髙倉流26世宗家)著より一部抜粋
令和元年10月22日に天皇陛下の御即位を国内外に明らかにする即位礼正殿の儀が皇居宮殿松の間で厳粛に執り行われました。天皇陛下は御束帯黄櫨染御袍をお召しになり、皇后陛下は御五衣・御唐衣・御裳を身につけられました。これらの装束は現代の第一級正装にあたります。そしてその起源は平安時代に遡ります。即位の御装束は平安時代の再現が目的なのではなく、日本本来の正装としてその場にふさわしい姿を表しているのです。
即位礼の際には、平安絵巻さながらの装束といった表現をよく耳にしました。実際には平安時代と現代とでは、多くの点で異なっています。たとえば『源氏物語絵巻』に描かれている女性は、3 名を除き、座った姿で描かれています。一方、令和の即位の際には立ち姿の両陛下のお姿を皆様はご覧になられました。装束は時代の要請によって絶えず変化してきました。
装束の着装についても我が国では古くからさまざまな知識が集積されてきましたが、平安時代後半から有職故実、殊に装束に関わる知見が集大成されて「衣紋道」が成立しました。
髙倉家は、藤原北家の長良(802~856) を遠祖とする衣紋道の家です。長良は藤原北家の左大臣冬嗣(775~826)の長男として生まれ、長良から数えて五代目の為信の娘が紫式部の母にあたります。また、紫式部の父は、長良の弟の良門から数えて五代目の為時になります。すなわち、紫式部の先祖をたどっていくと、母方父方ともに髙倉家の元祖である藤原長良の系譜を辿ることができます。
長良の子、基経が良房の養子となり、初の関白に就任して、藤原摂関家の基礎を築きあげたことはよく知られています。長良の子・髙経には孫に倫寧があり、その女に『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母がいます。また『更級日記』の作者である菅原孝標女の母は、彼女の異母妹であることも文学史ではよく知られています。
髙経の弟に清経がいます。その系統が現在の髙倉家の系譜へと繋がります。清経の孫の文範(909~996) は、京都・大雲寺の創建で知られます。大雲寺は一説には『源氏物語』「北山のなにがし寺」の準拠とされており、『源氏物語』との関わりが指摘(角田文衛『紫式部とその時代』角川書店、1966 年)されています。
文範の子のうち、為雅の八代の孫・範昌(従四位下大蔵少輔)の長男・永康(生年不詳~1302)、四男・永経の代で髙倉・冷泉を称する系譜が生まれます。永経を髙倉家第一世とし、その四代の孫・二男永季(1338~92) の一流が髙倉家を継承したとされています。 室町時代に入ると、髙倉永行(生年不詳~1416) は朝廷に仕えるとともに、足利義満(1358~1408) の家礼となり、以後、足利将軍家の装束をも担当するようになります。髙倉家はその家職上、累代装束の成書に携わり、また装束の調進も行ってきました。髙倉家には『口伝秘抄』『装束式目抄』『法躰装束事 付童躰装束事』『装束雑事抄』『装束寸法深秘抄』等々、いずれも鎌倉中期から室町初期の髙倉家歴代の奥書・識語のある来歴の明らかな著作物が伝わっています。特に髙倉永行の手による『法躰装束書 付童躰装束事』は、足利義満の出家に関わり成立したとされるもので、書名に表されるとおり法体・童形の装束故実について記したものでありますが、「衣紋の家としての髙倉家の面目躍如の書物」という評価がなされています(近藤好和「第3 章装束抄/ 装束に関するマニュアル書」、松薗斉・近藤好和編『中世日記の世界』ミネルヴァ書房、2017 年)。
江戸時代になると朝廷では天皇の装束を山科家が担当し、上皇の装束を髙倉家が担当するようになります。また室町時代に引き続き、徳川幕府の装束も担当するようになりました。大名、旗本も官位を持つようになり、その装束を学ぶため、髙倉家の門弟は全国に広がりました。
近代装束は明治に入り、西洋文化の影響により、宮廷装束も洋装への変遷が見られるようになります。明治天皇の即位式は慶応4 年(1868)8月27日に実施されます。天皇の即位式に用いられてきた礼服は中国風ということで廃止され、束帯が使用されました。天皇は衣類の洋装化を進めます。明治4 年8月8日、山科家、髙倉家に対し、従来の衣紋道の家職とそれに伴う装束の調進を停止する旨の通達がありました。しかし明治16 年(1883) には、明治天皇の旧儀再興の宣明により、宮内省での両家の衣紋法教授が命じられました。明治以降、西欧文化に対応して女性が儀礼に参加することが必須となったため、立礼による新しい儀礼が誕生します。ただ女房装束が着用されるのは御即位や御婚礼などの格別の儀式だけとなりました。さらに儀礼を写真や映像で記録する観点から、直立で正面を向き、襟・裾・袖を綺麗に整え、立ち姿が映えることを意識した着装に変化したと考えられます。整えられた着装は、現代の美意識にも通ずるところがあります。
女房装束の歴史を一覧しただけでも、装束は、時代の変遷や用途によってさまざまな変化を遂げつつ、現代まで脈々と受け継がれてきたことがご理解できたと思います。装束と衣紋は、世界に類例を見ない「生きた伝統文化」であり、独自の美意識の表れとして、これからも時代に順応しつつ継承されていくと思われます。
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| 稽古日 | 各自都合の良い日一日 10:00〜15:00(昼食持参) または 13:00〜17:00 時間は多少前後変更可能 |
|---|---|
| 稽古代 | 1日4時間 11,000円税込 (装束使用料 他含む) |
| 初回のみ | 入会金・年会費・稽古着費用 |